七面焼とは、第9代水戸藩主の徳川斉昭が天保9年(1838年)偕楽園の南側斜面に開設した七面陶器製造所で焼かれた陶器をさします。「陶器を他領からから持ち込まず、藩内の品でまかなえばその分だけお金が他領に流れず、経済が豊かになる」という斉昭公の殖産興業の考え方がありました。陶磁器を、藩財政と藩民の利益のために藩内の陶土を使って、明治2年(1869年)頃まで生産販売をしました。
残念ながら七面製陶所は明治初期に閉鎖されてしまいましたが、水戸市には七面焼を再び蘇えさせようとする研究団体「七面会」が結成され、その活躍が期待されています。顧問は山形県銀山上の畑焼陶芸センター代表の陶芸家伊藤瓢堂氏(写真)。伊藤先生は、徳川斉昭公の手がけた七面(水戸市)・町田(旧水府村)・小砂(旧那珂町小砂)の窯を再び平成の世に復興させるべく「水戸藩セラミックロード」の実現を提唱している。

陶芸家 伊藤瓢堂先生(京成デパートにて)
常磐神社大鳥居の横に立つ「七面陶器製造所跡」の石碑
平成17年の水戸市の発掘調査で出土した破片
篆書体「偕楽園」の文字が確認できる
平成17年の発掘調査では土瓶・急須・徳利・湯飲み椀・皿・鉢・土鍋等、日常使われる器物が多数出土した

七面製陶所の設置から閉鎖まで 
(水戸市教育委員会 七面製陶所平成17年度確認調査現地説明会資料より)

年 代
出  来  事
文政12年(1829) 徳川斉昭(列公)が30歳で第9代水戸藩主となる。
天保元年(1830) 藩内の陶土の調査を実施。常陸太田在の町田と下野の小砂村(こいさごむら)で陶土を発見。
天保2年(1831) 通事伊藤友寿を京都へ派遣し、陶器製法を研究させる。
天保4年(1833) 陶土の産出地である町田と小砂に窯を築きたかったが、藩内事情から実現できなかったため、第1回目の就封(帰国)の時、お手もと金で水戸の城東、下町の瓦屋(瓦谷、かわらや)に陶器製造所を開設。
天保5年(1834) 陶器焼成が軌道に乗りはじめ、翌6年春には磁器の焼成に成功。
天保9年(1838) 神崎七面堂(かみさきしちめんどう)の下に七面製陶所を設置し、瓦屋の製陶所もここへ合併する。窯場(「好文亭四季模様之図」)は、千波湖に面した崖下に設置され、「びいどろざいく御家」、「白やきせとや」、「御役人」、「諸事御せ戸やき場」などの施設があり、3基の連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)も描かれている。
天保11年(1840) 製陶所を視察。
天保12年(1841) 肥前唐津(ひぜんからつ)の陶工傳五郎(とうこう でんごろう)を雇い、製陶所の拡張準備を行うが、藩内事情から陶業拡大政策は進展しなかった。(斉昭は製陶所を七面、町田、小砂の3箇所に設け、小砂のものは水戸の城下や江戸、あるいは那珂川の上流筋など運送の便の良い方へ出荷し、町田のものは太田で売りさばけば、かなりの利益が見込めると考えていたようである。)
天保13年(1842) 偕楽園が開園される。
弘化元年(1844) 斉昭が幕府から致仕謹慎を命じられ、水戸藩の天保改革は挫折する。
明治4年(1871) 廃藩置県が行われ、幕府の資金的援助を失った七面製陶所も閉鎖された可能性が高いと考えられるが、正確な閉鎖年代については不詳。