遺徳の碑 (いとくのひ)

関新平 天保14年(1842)〜 明治20年(1887)
 「特に我が水戸人士に徳あり」とたたえる遺徳の碑は、茨城県誕生の混乱期2年8ケ月務めた第6代茨城県知事関新平の遺徳を偲ぶものです。元佐賀藩士だった関新平は、当時失職の士族たちのために官林を払い下げるなど授産の道を開きました。こうした関の尽力により職を失った士族は農業、教師、警官等への道を歩むことができるようになったのです。
 また、明治5年7月26日早朝の水戸城焼失の際、多くの水戸士族が嫌疑をかけられ投獄されましたが、捕らえられた人々の無実を上申し、明治7年5月に釈放を実現させたのです。
 のち関は裁判官、愛媛県令を歴任しましたが43歳の若さで在職中に亡くなりました。その死を惜しみ、明治30年に偕楽園の地に水戸の人々によって「故茨城県参事関君遺徳碑」が建てられました。
 篆額は水戸藩最後の藩主、徳川昭武(とくがわ あきたけ)、撰文は手塚悳進(てづか とくしん)、書は北条時雨(ほうじょう しぐれ)によるものです。

経歴等:茨城県参事、熊谷裁判長、愛媛県知事、佐賀士族
妻は江木和気子、弟に警視総監関清英
天保14年(1843) 生
明治13年(1880)3月 8日 愛媛県令
明治19年(1886)7月19日 愛媛県知事
明治20年(1887)3月 7日 歿

偕楽園中央売店西側にありますが、「梅まつり」期間中は臨時売店の裏側になってしまい見落としてしまいます。


遺徳の碑

遺徳の碑
中央の売店の近くにあります

篆額「遺徳之碑」は
最後の水戸藩主徳川昭武の書

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